人気と批判
PTA、婦人団体、青少年保護団体などがエルヴィス非難の宣言を発表、宗教界は彼のコンサートやレコードをはじめとするあらゆるものをボイコットする運動を始めた。
アメリカ全土にわたって様々な禁止令が敷かれた。ジュークボックスからロックンロールを排除したり、各地でコンサートが禁止されたりしていた。ティーン・エイジャーのエルヴィスに似せたヘアスタイルやモミアゲも取り締まられた。ラジオ局でもエルヴィスのレコードは放送禁止となる局もあった。
しかし、エルヴィスがテレビ出演すると視聴率が上がる状態は続いていた。当時の人気番組「エド・サリバン・ショー」のサリバンはエルヴィスは出さないと公言していたが、低迷する視聴率には勝てず高額な契約料で計3回出演させることになった。9月、初めての出演日の視聴率は43.7%、占拠率82.6%にまで上がった。2回の出演ではエルヴィスの全身像が放送されたが抗議が殺到し、3回目は上半身だけ映すよう指示が出された。その結果、逆に魅力的なエルヴィスが各家庭に大写しされた。この3回目の出演のとき、エルヴィス本人の希望でゴスペル「谷の静けさ」を歌った。視聴者はそれまで見たことがないエルヴィスの一面を好意的に歓迎した。
1956年10月には2枚目のアルバムが発売された。1枚目と似たような曲が12曲入っていたが、数週間のうちにチャート1位となった。重要なチャートすべてエルヴィスがトップになっているという状態がふたたび作り出された。
社会現象
エルヴィスに刺激されて、白人ミュージシャン達も少しずつ黒人音楽、黒人ミュージシャンに敬意を払うようになっていった。また、白人ミュージシャンにとって黒人のレコード購買者層が見逃せないものとなった。
カントリー・ミュージックのスター達のレコード売上は半減したが、レコード業界全体の売上は増加した。それまで見過ごされていた若者達が、大きな可能性を持つマーケットであることが明らかとなった。また、ギターの売上が天文学的な数字になった。
映画出演
エルヴィスのテレビ出演の次にパーカー大佐が目指したのはハリウッドだった。エルヴィス自身もジェイムズ・ディーンにあこがれて映画俳優になりたいと思っていた。
1956年8月、最初の映画「やさしく愛して」の仕事にとりかかった。11月に ニューヨークでこのデビュー作が公開されたときには警官が警備にあたり、早朝から3千名の女の子ばかりの行列ができて大騒動となった。興行としては大成功したが、映画評論家は俳優としてのエルヴィスを酷評した。
年末の休暇中に2本目の映画「さまよう青春」の撮影に入った。エルヴィス主演作品として特別に書き下ろされたもので、トラック運転手から歌手として成功していくというストーリー。評価は前作よりはよかった。挿入歌は7曲あったが、作曲家が脚本を読んで作ったデモのなかからからエルヴィスが選曲するという通常では考えられない方法が取られた。
1957年5月、3本目の映画「監獄ロック」の撮影に入った。主題歌の「監獄ロック」は発売と同時に爆発的なヒットとなった。
映画に前後して「恋にしびれて」「トゥー・マッチ」が100万枚以上を売り上げた。1957年12月にはクリスマス・アルバムが発売され、すぐに第1位となった。さらにもう一枚「ドントまずいぜ」を発売し、これもまた発売前に100万枚を超えた。発表されるものすべてが大ヒットする状態が続いていた。
徴兵
1957年12月、エルヴィスは以前から噂のあった徴兵令を受けた。特殊な扱いを受ける提案もあったが、本人が一般兵士と同じ扱いを希望した。翌年1月入隊の予定であったが、4作目の映画撮影準備が開始されており、2ヶ月延期となった。この処置に対して世間の意見はやはり様々に分かれた。4作目のエルヴィスお気に入りの映画「闇に響く声」は多くのファンが押し押せたなかで撮影された。
1958年3月、エルヴィスはメンフィスの徴兵局に出頭した。髪を短く切り、制服に着替え、ほかの人達と同じように軍隊の任務につくと本人が発言した。訓練に入ってからはインタビューは禁じられたが、ファンレターや電話で当局の対応は大変だった。 約半年間の訓練を受けた後、ドイツに駐留している第三機甲師団に配属された。
エルヴィス不在の2年間
入隊により人気は衰えるだろうという見方もあったが、むしろ人気が上昇する一方だった。 RCAはアルバム「ゴールデン・レコード」と21枚目のシングル「思い出の指輪」を発売した。このころにはパーカー大佐はファン・クラブを収益の多い商売に作り上げており、発売前の注文が100万枚を超えていた。
1958年5月の終わりに映画「闇に響く声」が封切られ、映画のなかの「冷たい女」とサントラ盤がミリオンセラーとなった。
8月、体調を悪くしていた愛する母グラディスが急死した。葬儀では一人出歩けないほどだったが、予定通り9月にはドイツへ向かった。悲しみから立ち直るいいタイミングだったかもしれない。
エルヴィス不在の期間、パーカー大佐は巧みな演出でしのいでいったが、未発売の曲があまりに少なかった。
1959年2月の終わりころにはビルボードのヒット100曲のなかにエルヴィスの曲はなかった(この3年間で初めて)が、3月に「ア・フール・サッチ・アズ・アイ」を発売し19枚目の100万枚レコードとなった。6月に未発売の最後の曲「恋の大穴」が発売され、これも100万以上売れ第1位になった。エルヴィスは2年半もの間テレビ出演もコンサートもおこなっていなかったが、人気は落ちていなかった。8月、かつてのシングル盤を集めたアルバム「エルヴィスとデート」を発売した。初期のサン・レコードの曲を含み、内容は悪くなかった。
しかし、10月に「恋の大穴」がヒット100から落ちると、エルヴィス復帰までの5ヶ月間を埋める新製品はひとつもなかった。クリスマスシーズンに向けて前年のクリスマス・アルバムの再発売と「ゴールド・レコード第2集」を発売した。
1960年1月、軍曹となっていたエルヴィスの除隊話が報道されるようになった。除隊に向けて映画「監獄ロック」の再上映、ラジオ番組や雑誌の特集が計画された。RCAはまだレコーディングされていない除隊後初めてのシングル盤に100万枚のプレスを発注した。初めてのテレビ出演はフランク・シナトラのショーへのゲスト出演と決まった。この2年間、シングル盤は発売されるたびに100万枚以上売れ、彼の王座を奪う歌手は一人も出現していなかった。