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映画時代

復帰

1960年3月5日エルヴィスは一般市民に戻った。

まず、歌う前から注文が100万枚を超えていていた「本命はお前だ」をレコーディングした。
続いてフランク・シナトラのショーにゲストとして8分間出演したが、ギャラが途方もない価格でシナトラが怒ったと伝えられている。

フランク・シナトラのショーに出演したエルヴィス(YouTube)

もみあげはなく、蝶ネクタイをしめていた。

続いてナッシュビルでアルバム「エルヴィス・イズ・バック」を収録、1週間後に発売されチャートの上位に登った。
7月、除隊後2枚目のシングル「イッツ・ナウ・オア・ネバー」を発売、5週間第1位で100万枚以上売り上げた。ロックではなく、ナポリ民謡「オー・ソレ・ミオ」を基にした曲であったため多くのラジオ局で流された。次の曲はロックンロールからはさらに離れ、語りかける調子のバラード「今夜はひとりかい」だった。「イッツ・ナウ・オア・ネバー」より大きなヒットとなり発売第1週で100万枚を売り上げた。
翌1961年には、ナポリ民謡「帰れソレントへ」をアレンジした曲「サレンダー」をオペラ歌手のように歌い上げ、あらゆる世代に受け入れられあっという間に400万枚を売り上げた。

イッツ・ナウ・オア・ネバー(YouTube)
サレンダー(YouTube)

明らかに歌手エルヴィスは変化していた。

映画へ

「本命はお前だ」がチャートのトップとなったころ、映画「GIブルース」の撮影が始まっていた。兵士にしては髪が長かったが、もみあげはなかった。入隊前と比べ大人っぽい落ち着きがあり、歌った11曲も洗練されていた。健康的になったエルヴィスは、より多くの人々に受け入れられ、映画「GIブルース」はハリウッド史上に残る高収益作品のひとつとなった。

映画「GI ブルース」(YouTube)

「GIブルース」が公開されたころ、次の映画「燃える平原児」の制作に入った。エルヴィスの歌が中心の映画ではなく、演技で見せる役だった。
この映画はクリスマスに合わせて公開され、以後も同じパターンがとられた。学校が休みの間はファンの女の子が何度も映画館に足を運ぶことを、大佐はファンレターの内容からつかんでいた。

Juliet Prowse-Elvis Presley in G.I. Blues

映画「G.I.ブルース」
(ウィキペディアより)

「燃える平原児」に続いて、「嵐の季節」の撮影に入った。この映画もシリアスなストーリーで、エルヴィスの歌は4曲のみ、作品も地味であったため興行的には当たらなかった。

1961年2月、ハワイでチャリティー・コンサートを成功させ、その後1969年までコンサートで人前に出ることがなくなる。
コンサートに続いて映画「ブルー・ハワイ」の撮影に入った。「ブルー・ハワイ」は大ヒットし、高収益をたたき出した。サントラ盤もよく売れた。ストーリーはどうというこはないが、美しいロケーションを舞台にエルヴィスが歌いまくるという、いわゆる「エルヴィス映画」の原型ができた。

映画「ブルー・ハワイ」(YouTube)

エルヴィス映画

「ブルー・ハワイ」の大ヒット以降、年間3本のペースで映画が量産されていく。大佐の考えは、エルヴィスには絶対的ファンがいて、どんな映画でも何度も観るので、映画の内容は何でもいいというものだった。実際、エルヴィスだけを観るためのファンにより映画館に行列ができた。
そして、エルヴィスは映画とレコードでしか会えない「雲の上のスター」という状態を作り出すことに成功した。

1964年公開の「ラスベガス万歳」はミュージカル映画として出来もよく、興行的に最も成功した。

映画「ラスベガス万歳」(YouTube)

しかし、その制作の合間に撮られた「キッスン・カズン」以降、作品の水準が低下していく。「キッスン・カズン」は早撮り映画で知られたサム・カッツマンが低コスト、短期間で製作したものだった。パーカー大佐がその手法を気に入り、大した打ち合わせもせず、歌のリハーサルも省略され、映画が量産されていくようになる。

このころ、エルヴィスは映画出演料が最も高額な一人となっていた。さらにエルヴィスの場合、映画の総収益の50%をとり、レコードやキャラクター商品の売り上げもあるので、圧倒的な収入となっていた。1965年4月の発表で、それまでの映画の総収益は1億2500万ドル~1億3500万ドルとなり、RCAによれば、レコードの売り上げが1億枚に達し、収益は1億5000万ドルということだった。

低迷

当初は「エルヴィス映画にタイトルはいらない、番号をふっておくだけでも客はくる」などと言われていた。実際そうであったが、同じような映画が繰り返され、次第にファンでさえ新しい映画を観に行かなくなった。

映画作成に関係した多くの人達がエルヴィスの演技の才能については認めていたが、結局彼の能力を引き出すような方向には進まなかった。エルヴィス本人も、興行的に成功するということは、それを求めるファンがいて、その人達を楽しませているのだから違う試みはしないと言っていた。しかし、次第に自分の作品に疑問を持ち始め、周囲に不満を言うようになっていった。ただし、大佐には文句を言わなかったようだ。

1967年4月、西ドイツ駐在中に知り合っていたプリシラとラスベガスで結婚式を挙げ、翌年2月に娘リサ・マリーが誕生した。

エルヴィスとプリシラ(YouTube)

教会に行くことはなくなっていたが、信仰心は熱く、スピリチュアルのアルバム「ゴールデン・ヒム」を発売し、初のグラミー賞を受賞した。

映画は相変わらずのものが続いていた。

Elvis Presley and Priscilla with Lisa Marie February 1968

生まれたばかりのリサ・マリーと
(ウィキペディアより)

1968年1月、クリスマス・シーズンに1時間のエルヴィス特別番組をNBCテレビが出資・作製すると発表された。監督のスティーブ・ビンダーは、くだらない映画の繰り返しになったら、それでエルヴィスは永久に終わってしまうと考えていた。エルヴィス自身がこの特別番組の一部であり、自分がこの特別番組をつくっているのだという気持ちにさせ、大佐を通したエルヴィスではなく、本当のエルヴィス・プレスリーを皆に観てもらう番組をつくろうとしていた。

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2021年4月26日