発火
サムは「ザッツ・オールライト」を放送してくれそうなデューイ・フィリップスという白人DJを訪れた。レコードを聞いたデューイは気に入りラジオで放送したところ、電話でのアンコールが殺到し、連続して何度もかけることになった。エルヴィスが黒人だと思いこんでいる人も多かった。それから数日の間にサン・レコードにはレコードの注文が5千枚分届いた。まだマスターテープも作っていなければプレスも始まっていなかった。
世界で最初に「ザッツ・オール・ライト」/「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を放送したデューイ・フィリップス(Wikipedia)
「ザッツ・オールライト」は1954年7月の終わりから12月までメンフィスのカントリー・アンド・ウエスタンのチャートにあった(最高1位)。
ビルボード誌は「カントリーにおいてもリズム・アンド・ブルースにおいても、歌を強烈に叩き出す強力な新しい歌い手」とほめていたが、レコードのヒットは一部の地域だけに限定されていた。リズム・アンド・ブルース中心のDJにとってはカントリー的すぎ、一方カントリー中心のDJはブラックすぎるという反応だった。1954年7月、最高裁で公立の学校では白人生徒と黒人生徒を区別することを禁止する判決が出たという時代だった。
陽が昇る
エルヴィスに対する反応は、ティーンエージャーが熱狂する一方で、町のクラブや様々なステージでの「あれは一体なんだ」というものまで様々だった。
当時カントリー音楽の世界で最も敬意を表されていた2つの公開ライブ放送のラジオ番組「グランド・オール・オプリ」と「ルイジアナ・ヘイライド」に出演するチャンスをつかんだ。前者は保守的で客の年齢層も高く評価されなかったが、ルイジアナ・ヘイライド出演のときは、この地方ですでに人気があり、エルヴィスが出演したときに最も会場がわいた。その後毎週土曜日に出演するという1年契約を結び、土曜日の夜は3500の席がいつも満員となった。エルヴィスは音楽に専念するために、当時トラック運転手として働いていた電気会社を退職した。
1955年1月、2枚目のレコード「今夜は快調」を発売したが1枚目ほどは売れず、メンフィスで3位までだった。しかし、ビルボード誌が大きく取り上げ、「叩き込むように歌う新しい歌手」「カントリー、リズム・アンド・ブルース、ポップスのいずれの分野でもアピールする力を持っている」と評した。この3つの分野すべてにまたがりうる歌手はまだ少なく、エルヴィスは特別なカテゴリーのなかに区分けされ始めた。
3枚目のレコード「ミルク・カウ・ブルース・ブギー」はビルボード誌に取り上げられることもなく売れ行きはよくなかったが、ファンクラブを作るに足るほどの熱心なファンがつき始めていた。
トム・パーカー大佐
1954年から1955年の冬、後にマネージャーとなり終生の付き合いとなるトム・パーカー(通称パーカー大佐)が、当時のエルヴィスのマネージャーに手を貸すというかたちで繋がりを持ち始めた。大佐はちょっとした逸話を持つ興行師で、トップクラスのカントリー歌手のマネージメントを初め、南部ではよく知られた人物だった。
1955年5月、初めての大きな巡業(ニューオリンズ→ルイジアナ→アラバマ→フロリダ→ジョージア→バージニア→テネシー)を行なった。この頃には南部での人気は相当なもので、キャデラックを2台買うまでになっていた。
*トム・パーカー大佐(ウィキペディア)
7月、4枚目のレコード「ベイビー、レッツ・プレイ・ハウス」がエルヴィスのレコードとしては初めてカントリー・アンド・ウエスタンの全米ベストセラーのチャートに登場した。それまでは地方のチャートのみだった。このレコードがチャートの上位を目指しているころ、サン・レコードから最後となる5枚目のレコード「忘れじの人」「ミステリー・トレイン」が発売された。
ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス(YouTube)
忘れじの人(YouTube)
このレコードが小売店に出荷されつつあったころ、パーカー大佐と今後のことが話し合われた。この年にはエルヴィスの専属契約を買い取る話がいくつも出てきていたが、パーカー大佐は当時としては途方もない金額を出して他を寄せ付けなかった。この頃になるとステージに来る客数の記録は次々に更新され、全米ヒットチャートに3枚のレコード「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」「ミステリー・トレイン」「忘れじの人」があった。1954年に有望な新人歌手の第8位だったのが、第1位となっていた。
ハート・ブレイク・ホテル
1955年11月、全米の二大レコード会社のひとつであるRCAビクターと契約し、サン・レコードのすべてのレコーディング、レコード販売などがRCAのものとなった。エルヴィスの移籍額(4万5千ドル)は当時の音楽業界では前代未聞のとんでもない額で、パーカー大佐の巧妙な売り込みの結果だった。
1956年1月、RCAからの第1弾「ハート・ブレイク・ホテル」をリリース。サン・レコードでの独創的なサウンドとはまた違った、よりポップに向かった別の新しいサウンドに変化していて、これまで聴いたこともないような曲に仕上がっていた。エルヴィスはこの曲で全米スター、そして世界のスターへと駆け上っていく。
エルヴィスとパーカー大佐は、お互いの夢を追求するのに必要な相手だった。パーカー大佐は貪欲な商人ではあったが、エルヴィスを大スターにした有能なマネージャーであったことも間違いない。
テレビ出演
1月28日、CBSの「ステージ・ショー」でテレビに初出演した。南部では暴動が起こるほどのスターとなっていたエルヴィスだが、ニューヨークでの知名度はまだそれほどではなかった。
家庭のテレビに登場して、いきなり黒人の曲「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を体をくねらせながらシャウトするエルヴィスの姿を観た人々の驚きはいかほどだったろうか。放送の後、番組始まって以来の手紙がテレビ局に寄せられた。
「ハートブレイク・ホテル」はあっという間に100万枚を売り尽くし、ビルボードの順位を急激に上げていき4月には第1位となり8週続いた。当時の100万枚は途方もない数字だった。この時代、若者達が音楽を聴くのはラジオかジュークボックスだった。 このころ「ブルー・スエード・シューズ」など12曲が入ったRCAからのファースト・アルバム「エルヴィス・プレスリー登場」が発売された。このなかにはサン・レコードから買い取った未発売曲4曲も含まれていた。3月なかばの発売と同時にビルボードの第11位に入った。
ステージ・ショーでのハートブレイク・ホテル(Youtube)
4月、ステージ・ショーよりはるかに視聴率が高い「ミルトン・バール・ショー」に出演した。推定視聴者数は4000万人でアメリカ全人口の4人に一人が観たことになる。レコードはヒット・チャートに次々と現れ、どこを向いてもエルヴィス・プレスリーの名が目についた。4月の終わりにはアルバムも「ハート・ブレイク・ホテル」も第1位になっていた。5月初めには2枚目のシングル「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」が発売された。行く先々で大騒動となり、会場の出入りも大変になっていた。
6月、2回目のミルトン・バール・ショーに出演して「ハウンド・ドッグ」を歌った後からエルヴィスへの批判が集まり始めた。「歌う動作が下品でセクシーすぎる」などの体の動きに対するものが圧倒的だった。エルヴィスは右足に重心をおいて、左足を激しく動かしたり震わせたりした。その動きひとつひとつに観客は反応し悲鳴や歓声を上げた。その動きは、ごく自然に彼の体の中から出てきたものだった。