栄光
1969年8月のラスベガス公演を成功させた後、翌年1月に再びインターナショナル・ホテルで公演をおこなった。間隔があまりに短く、ラスベガスの閑散期でもあったが、初回以上の成功を収めた。
ラスベガス公演の後、テキサス・ヒューストンのアストロドームで6回の公演をおこなった。音響は悪かったが、3日間でラスベガスの倍近い20万人以上を動員した。テキサスは1954-55年にエルヴィスが最初に躍進していった地であり、初期のファンも多く、なによりエルヴィス自身がもう一度来たいと思っていた。チケットは、最低はわずか1ドルのものからあり、お金がないファンも入ることができたことも出演動機のひとつだった。
1970年7月から9月まで、3回目となるラスベガス公演をおこなった。その模様はドキュメンタリー映画「エルヴィス・オン・ステージ」として公開され、世界中で大ヒットし、エルヴィス・ブームが巻き起こった。
その後も年2回のラスベガス公演を続けながら、全米各地のコンサート・ツアーを続けていった。
1972年4月に12州15都市でおこなわれたツアーの模様は、映画「エルヴィス・オン・ツアー」として公開され、ゴールデン・グローブ賞「最優秀ドキュメンタリー作品」を獲得した。
1972年6月、初めてのニューヨーク公演をおこなった。マディソン・スクエア・ガーデンが3日間で計4回、完全に満員となった。会場にはジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、ブルース・スプリングスティーンらの顔もあった。
1973年1月には、当時報道のみに使用されていた宇宙衛星を使って全世界に生中継するという、史上初の巨大なイベントが試みられた。このハワイでのコンサートは大成功を収め、世界で15億人が観たと言われている。アメリカ本国では映画「エルヴィス・オン・ツアー」との競合を避けるために、生ではなく後日テレビ放送された。
アロハ・フロム・ハワイより「マイ・ウエイ」(YouTube)
過酷
エルヴィスは69年のステージ再開から8年間、年2回のラスベガス公演とアメリカ全土を移動して信じがたい数のステージをこなしていった。
ーウェブサイト ”Elvis Presley in Concert” (https://www.elvisconcerts.com/index.htm)を集計ー
1970年 16都市 139回 1971年 14都市 156回 1972年 31都市 165回 1973年 19都市 172回 1974年 44都市 157回 1975年 30都市 107回 1976年 78都市 126回 1977年 54都市 59回 |
まるで最後の炎を焼き尽くすかのように見える数である。
グレースランドとプリシラ
エルヴィスは1957年にメンフィスの元農場であったグレースランドを購入して移り住んだ。敷地面積は5.7ヘクタールで、東京ドームより少し広い。
エルヴィスは大スターとして名声を得るのと引き換えに、一般市民には当然の自由とプライバシーを失い、グレースランド内か、人目を忍んで夜に外出するしかなくなった。メンフィスマフィアと呼ばれる取り巻きー徐々に増え10人以上が一緒に住み、ボディガードと身の回りの世話をしていた。
プリシラは、グレースランドでエルヴィスを待つ毎日を送っていた。二人に破局がおとずれるのは、必然だったかもしれない。
1971年冬に、二人の不仲は決定的となり、1972年1月のエルヴィスの誕生パーティーにプリシラとリサ・マリーの姿はなかった。2月にはプリシラはリサ・マリーを連れてグレースランドを出て行き、エルヴィスの空手の先生の元で新しい生活を始めた。
73年10月、正式に離婚が成立した。
悲鳴をあげる身体
エルヴィスは長年強い照明を浴び続けた結果の緑内障による強い痛みに悩まされていたが、周囲には隠していたようである。さらに循環器、肝臓、腎臓、腸にも問題があった。ストレスに起因すると思われる偏食と拒食、肥満もあり、精神的な問題も抱えていたようである。麻薬は使っていなかったが、合法的ではあるものの異常な量の薬剤を服用して、こういった身体状況に対処し、過酷なスケジュールをこなしていた。
突然の死
1977年8月16日、エルヴィスは午前8時から9時頃、グレースランド2階にあるバスルームで倒れ、蘇生処置が施されたが、再び目を開けることはなかった。死因は「不整脈による心不全」とされている。
8月17日からはツアーの予定が組まれており、最終日のメンフィス公演までチケットは売り切れだった。
アメリカ中のメディアがこのニュース一色となり、レコード店からエルヴィスのレコードが消え、メンフィス行きの飛行機は予約で満席となった。
エルヴィス・イン・コンサート77
1977年、米CBS-TVがクリスマス・シーズンに放送する予定で6月のコンサートを録画していたが、エルヴィスの突然の死により、急遽10月に放送された。このときの映像は、一部が映画「This is Elvis」で観られるが、他の映像は公式には封印されている。
この映像で観られるエルヴィスは、太っているだけでなく、顔はむくみ、体調が普通でないのがはっきりわかる。しかし、エルヴィスの笑顔は、安らぎさえ感じられるほど穏やかだった。そしてその歌声はすばらしく、「マイ・ウエイ」ではあたかも自分の死を予感し、人生を締めくくっているようにさえ聞こえる。
エルヴィスは遺言で葬儀は白一色を指定していたようだが、このステージ上の全員が白い衣装、観客に投げ込むスカーフも全て白色だった。