1枚のレコード
1953年夏、高校を卒業して機械工作店で働いていたある日、メンフィスのサン・レコードがおこなっていた4ドルでプライベート・レコードをつくるサービスを利用した。母親への誕生日プレゼントという資料もあるが、母親の誕生日は4月で時期的におかしい。当時はまだテープレコーダーが一般的でなく、自分の歌声を聞きたいと思ったか、あるいはサン・レコードと繋がりを持ちたかったようである。サン・レコードは積極的に黒人音楽のレコードを出していた稀な会社だった。
録音した曲は、その当時エルヴィスが好きだった「マイハピネス」で、自分でギター伴奏している。そのとき対応したのがマリオン・カイスカーという女性で、以後のエルヴィスの運命を決定づけた人物であるといっても過言ではない。彼女はレコーディング途中から社長のサム・フィリップスに聞いてもらおうと思い密かに録音を開始した。これまでお客に対してこのようなことを行ったことはなかった。サムは日頃から白人で黒人のサウンドとフィーリングを出せる歌手を捜していた。マリオンはエルヴィスの歌を聴いたとき、黒人的なものを感じたのだ。鳥肌が立ったというインタビューもある。
18歳のエルヴィスが歌う「マイ・ハピネス」(YouTube)
後でテープを聞いたサムは「大したものだが、これだけではものにならない。これから先トレーニングが必要だ。」と言い、このときはそれ以上の進展はなかった。
サムとの出会い
サン・レコードの社長サム・フィリップスは、白人社会では特殊と見られていた黒人ミュージシャンたちの素晴らしい音楽を多くの人々に聴かせたいと自分のスタジオを開設した。そして、白人の子供たちが大人に隠れて黒人たちのブルースやリズム・アンド・ブルースを熱心に聴いているのをよく知っていた。口癖は「黒人のように歌える白人がいれば一儲けできる」だった。
サン・スタジオ
1954年1月、エルヴィスはサン・レコードで二度目のレコーディングを行った。このときいたのはサム一人で、初回と同じようにエルヴィスの歌に感心したが、「今すぐは何もしてあげられない」といい、名前と電話番号を控えた。
そのころのエルヴィスは公会堂でのオールナイトのゴスペル集会にもたびたび顔を出し、自信を持って自分の好きな歌を歌うようになっていた。スピリチュアルにはあまりふさわしくないような腰の動きをしていたが、熱心に歌うあまり自然にそうなるようだった。このころには歌を歌うのを職業にしたいと考えていた。
*サン・スタジオ(ウィキペディア) *サム・フィリプス(ウィキペディア)
スコッティとの出会い
サムは積極的にエルヴィスに連絡するようなことはなかったが、マリオンは事あるごとにエルヴィス(「もみあげクン」と呼んでいた)を使ってあげたらと進言していた。1954年6月、サムは送られてきた1枚のデモ・レコードが気に入って、マリオンの提案でエルヴィスに歌わせてみることになった。しかし、出来は今ひとつで、その後エルヴィスに好きな歌を歌わせて数時間を過ごした。サムはこのとき、エルヴィスの中に人とは違う何かを感じたという。
エルヴィスがバンドを探しているというので、スコッティ・ムーア(その後多くの人々から、エルヴィス・プレスリー・サウンドをつくりあげ、エルヴィスにもっとも大きな影響を与えたといわれるバンドのギタリスト)を紹介することとなった。スコッティの記憶では、初対面のエルヴィスはピンクのシャツとスラックス、白いシューズという派手な服装が印象的で、歌については、声はいいがそれほど特別には思わなかったようだ。
スコッティのギターリフが光る「ミステリー・トレイン」1955年7月録音(YouTube)
ベースのビル・ブラックを加えた3人でどんなサウンドになるか試すことになり、スコッティの家で練習した後サン・レコードで録音することとなった。
バックで演奏するスコッティ
(ウィキペディアより)
ロックンロールの誕生
サン・レコードのスタジオでエルヴィスが歌える曲をいろいろやってみたが、うまくいかなかった。休憩となった重苦しい空気の中、エルヴィスがギターをかき鳴らしながら「ザッツ・オール・ライト」を歌い始めた。激しく体を動かしてスタジオの中を飛び回りながら。ビルとスコッティもすぐに加わって楽しそうに伴奏を始めた。コントロール・ルームにいたサムは、落としていたボリュームを上げてそのサウンドを聴き、「今のは何だ!」と部屋に入っていった。目の前にいるエルヴィスこそが自分が探し求めていた男だった。
この歌は1946年のリズム・アンド・ブルースだったが、上っ面をまねたのではなく、すっかりエルヴィスの歌になっていた。何故それまでのリハーサルで全く歌わなかったのかは興味深い。若々しいエルヴィスの声がスコッティのギターとビルのベースが作り出すリズムに乗って、古いブルースが全く新しいスタイルの曲となっていた。
この「ザッツ・オール・ライト」がロックンロールの誕生とよくいわれているが、続いてレコーディングされたB面の「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」こそがそうだという人たちも多い。「ザッツ・オールライト」は黒人の歌を白人がうまく歌っただけであるが、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」は白人の曲をエルヴィスがリズム・アンド・ブルースのメロディとフィーリングで歌った。
元の「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」は男性の高い裏声で歌う、うら悲しい感じのワルツであったが、ベースのビルが「ザッツ・オール・ライト」の早いテンポで裏声を使わず歌い始めた。それを受けたエルヴィスは、みごとに4分の4のリズムに乗せて歌った。拍数を合わせるため「I said」という歌詞を付け加えている。白人の歌が全く新しいサウンドに変わっていた。
ビル・モンローの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」1946年録音(YouTube)
エルヴィスの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」(YouTube)
この後プロとしてデビューしたエルヴィスたち3人は「ヒルビリー・キャッツとブルームーン・ボーイズ」と名乗っている。
いずれにしても、 この狭いスタジオで吹き込まれた2曲は歴史的なものだった。エルヴィスとふたりのバックアップ・ミュージシャンが、白人のカントリー音楽と黒人のブルース・サウンドを融合して、後に「ロックンロール」と呼ばれる音楽を作り出していたのだ。 これはとんでもないことで、黒人と白人の音楽とをひとつにまとめてしまうのは、まだまだ人々の賛同を得るのは難しい時代だった。