1953年7月18日、エルヴィスは自費でアセテート盤に「マイ・ハピネス」と「心のうずくとき」を録音した。エルヴィスにとって最初となるレコード録音である。
場所は、メンフィスのサン・スタジオに併設されたメンフィス・レコーディング・サーヴィス。費用は税込みで3ドル98セントだった。
そのアセテート盤の音は、今はデジタルでクリアに再現された音源で聴くことができる。
サン・スタジオ(ウィキペディア)
現在のサン・スタジオ
エルヴィスの声を初めて録音したのは?
この記念すべきエルヴィスの初録音をしたのは、マリオン・カイスカーという女性だったとされていることが多く、当サイトの生涯のところでもそのよう書いた。
マリオンは、サン・スタジオの設立者サム・フィリップスの相棒であり、アシスタントだった。
マリオンは、様々なインタビューに応えて自分が録音したと話しており、1989年に亡くなるまで大筋がぶれることはなかった。
よく語られるストーリーは以下の通り。
エルヴィスがスタジオに訪れたときサムが不在だったため、マリオンがレコードを作成した。
そして、この青年の声を聞いて、その才能に気づき、エルヴィスの歌声をサムに聞かせるためにテープに録音した。
その後、事あるごとにサムにエルヴィスを使ってみるように進言し、「ザッツ・オール・ライト」での歌手デビューにつながっていったというものである。
ジェリー・ホプキンスの「エルビス」では、ほぼそのようなストーリーとなっている。
マリオンの写真はこちらで(Find A Grave)
*マリオンの苗字は、カタカナ表記では「カイスカー」「キースカー」「ケイスカー」「ケスカー」があります。本人がどう発音していたかわかりませんが、YouTubeで聞いた範囲では、英語話者は「カイスカー」あるいは「キースカー」と発音していました。
最初に録音したのは、実はサム・フィリップス?
一方、サムはエルヴィスの初録音についてはコメントしていなかったが、1979年にローリング・ストーンズ誌のインタビューで、録音をしたのは自分だと言い切っている。
著明な音楽評論家であり、サムとマリオンの両者と友人であったピーター・グラルニックの著書に「エルヴィス登場」がある。それによると、エルヴィスが最初にサン・スタジオで録音したときに、サムはスタジオにいた。サムはエルヴィスに興味を持ち、マリオンに名前を控えておくように言ったと記している。そして、エルヴィスがスタジオを訪れた目的のひとつは、無名黒人歌手のレコーディグを手がけていたサムに会うことだったようである。
後年エルヴィスは、自分のレコードをつくったのは「母を驚かすために」とか、「自分がどんなふうに聞こえるのか聴いてみたかっただけ」と言っていた。
しかし、それなら別の安くレコードを作れる店もあった。あえて専門設備のあるスタジオで高価なレコード製作を選んだのは、サムに自分の声を聴いてもらいたかったのではないか、という推測がある。
サム・フィリプス(ウィキペディア)
エルヴィスが初めての録音をおこなって1年近くたったある日、サムは「ウィズアウト・ユー」という悲しい歌にあった歌手を探すなかでエルヴィスのことを思い出す。名前を覚えていたマリオンに連絡させ、その後「ザッツ・オール・ライト」へとつながる一連の出来事がすすんでいった。
ピーター・グラルニックの調べでは、マリオンが録音したという決定的な証拠はみつかっていない。
今となっては、誰がエルヴィスの最初のレコードを録音したのか結論を出すことはできない。しかし、サムもエルヴィス自身も、マリオンなしにはエルヴィスの成功はなかったと何度も言っている。
エルヴィスがその後活躍してくスタート時点で、サムとマリオンの両者が大きな役割を果たしたことは間違いない。
エルヴィスとマリオンの初めての会話
エルヴィスがスタジオで待っている間にマリオンと話した内容は、伝説のようになっている。
1971年にエルヴィス初の伝記を出版したジェリー・ホプキンスが、マリオンへのインタビューでなぜそんなにはっきりと内容を覚えているのかと聞いたところ、エルヴィスを宣伝している間、同じ話を何度もしたからだと答えている。
その会話は以下の通り。
M:マリオン E:エルヴィス
E:どんなのでも歌います(I sing all kinds.)
M:どんなふうな声なの?(Who do you sound like?)
E:誰にも似ていません(I don’t sound like nobody.)
M:ヒルビリー?(Hillbilly?)
E:ええ、ヒルビリーを歌います(Yeah, I sing hillbilly.)
M:ヒルビリーではどんな感じ?(Who do you sound like in hillbilly?)
E:誰にも似ていません(I don’t sound like nobody.)
マリオン・カイスカーとはどんな人物?
マリオン・カイスカー(Marion Keisker MacInnes)1917年9月23日 テネシー州メンフィス生
1929年(12歳)メンフィスのラジオ局WRECの子供番組でラジオ初出演
その後もいろいろな番組に出演し、メンフィスのラジオではなじみの声
1938年(21歳)メンフィス・サウスウェスタン・カレッジを卒業(英語と中世フランス語を専攻)
1939年(22歳)結婚
1943年(26歳)息子を連れて離婚
1945年 22歳のサム・フィリプスがWRECに入社(アナウンサー、補修管理技師、放送技師)、マリオンはビッグ・バンドの放送で一緒となった
1946年(29歳)以降は、人気番組「ミート・キティ・ケリー」の司会、他に14本の番組の脚本を書き、制作し、監督するパーソナリティ
1950年 サムがWRECの仕事をフルに続けながら自分のスタジオを開設、多忙で2度入院
マリオンはWRECをパート・タイムで働きながらアシスト(スタジオの場所選び、お金の工面、タイル張り、ペンキ塗り、設備の設置)
1951年6月 サムがWRECを辞職し、スタジオの仕事に専念
マリオンによると、サムとの関係は「サムが自分のヴィジョンを実現できるようにがんばっただけ」
1953年7月(35歳)スタジオを訪れたエルヴィスと初対面
1954年 サムが立ち上げた女性だけのラジオ局WHERで、サムの妻と一緒に仕事
1957年(39歳)サン・レコードの成功とともに、サムとの関係が破綻、サン・レコードを辞めアメリカ空軍へ
ラジオ制作の知識と技術を買われ、西ドイツで米軍向けの番組作製
1960年(42歳)エルヴィスが西ドイツを離れる前日に開かれた会見で2年ぶりの再会
士官となった彼女にエルヴィスは「僕はどうしたらいい? キス、それとも敬礼?」とたずね、マリオンは「その順番で」と返答
1969年(51歳)空軍を去った後、全米女性同盟のメンフィス支部で女性の権利のために活動
1989年12月29日、8月の癌手術の後、メンフィスのケネディ病院で永眠
参考資料
エルビス(ELVIS) ジェリー・ホプキンス、片岡義男訳(1971年)
エルヴィス登場(Last Train to Memphis)ピーター・ギュラルニック、三井 徹 訳(1997年)
エルヴィス・プレスリー 世界を変えた男 東理夫(1999年)
Marion Keisker ウィキペディア
First to Record Elvis – Marion Keisker 音楽業界で働く女性を支援する世界規模の団体「SoundGirls」のサイト
Did Marion Keisker Record Elvis? April Tucker(Audio Industry Writer/Blogger )という方の考察
Sun Records - 706 Union Avenue Sessions サン・レコードに関する膨大なデータを整理したサイト
Marion Keisker (1917-1989) 墓地に関するオンラインデータベース「Find A Grave」